「このままではイケない!」現状から抜け出したかった。ずっともがいていた。そんな中選んだのは、実力次第で独立でき、給与もしっかり稼げる保険の仕事。監督の一存で自分の未来を閉ざされたように、誰かに依存して生きるのはもうまっぴらだった。東京海上の研修生として入社し、教育担当者に言われるがまま飛び込み営業を繰り返す日々。野球で鍛えた体力と、厳しい上下関係で培われた「言われたことを素直にやる力」で、成績は同期の中で全国2位の成績。給与も増え、順風満帆なスタートなハズだった。


そんな中、会社を辞めざるを得なくなる事件が起きる。そのキッカケは全国規模の超大型契約。上司のサポートももらいながら地道に営業をして、日本中に拠点があり全国的な組織を持つ団体契約をいただけることになった。その額なんと6000万円。しかし契約が決まるその直前になって上司は、「この契約、直扱いにするから」と一言。その契約をいただくために、開発から手続きなど会議資料まで全部を一緒に関わったにもかかわらず、その契約は本社扱いとされ全く自分の成績にならなかった。こんな事はおかしいと、まわりの同僚・先輩達が立ち上がった。
元々、不満があった本社と研修生との関係性に対して火がついてしまい、大きな揉め事に発展。2回目の挫折。朝早くから夜遅くまで人の2倍、3倍働いて、せっかく築きあげた実績も、野球の時と同じようにゼロになってしまった。自分の責任で自分の実力で成績が積み上がっていく会社に入社したハズだったのに。しばらくボーッとして何もできなくなった。


そんな中、知人が紹介してくれたのが、直販制度があるという富士火災。「今度こそは!」と再チャレンジ。22歳で富士火災に入社し、同じように飛び込み営業を繰り返す。とにかく早く自由になりたかった。今思うと本当に生意気な社員だった。支社長の指示・命令にもよく噛み付いた。「言ったことは必死にやるけど、言われた通りやりきっても成果でなかったら責任とってくれるんですか?」と上司にも本気の真剣勝負を求めた。それでもらったアドバイスに対して、トコトンやり切ったため、同じように全国的にも優秀な成績を挙げたモーレツな社員時代。
大変ではあったけれど、保険の営業は本当にやりがいがあった。お客様が本当に困った時に助けになれる事が最高に嬉しかった。そしてお客様から、会社や家族には言えない事まで相談されて、それに応えたいと思った。今まで大嫌いだった勉強も楽しく勉強できるようになった。そうすると「長﨑君だから契約するんだからね・・・。」と、よく言ってもらえるようになった。最初は稼ぐためだけにやっていた仕事も、お客様に「ありがとう!」と言ってもらえることが幸せだった。たくさんのお客様に感謝されて、紹介もいただけるようになっていった。


順調に契約も増え、入社7年目の29歳の時には年収も1000万円を超えた。そろそろ独立と思ったものの、支社長が自分の数字を落としたくないとか、保険会社内の前年対比の増収などのくだらない理由や、若手の育成などでなかなか独立させてくれなかった。お世話になった会社ではあったけれど、組織にいるのは本当に嫌だった。ピンチの時にサポートしてくれる訳でもなく、その割に売り難い商品を売らされたり、後輩の指導を強要されたりするしくみ。
誰からも何も言われる筋合いも無く、組織に縛られず、自分の責任で、自分のため・お客様のための仕事だけができる事に魅力を感じて入ったはずなのに、組織の一員として会社のため、支社のための仕事をさせられるのが当たり前の答えのない仕事。早く自由になりたかった。

社長物語
プラットフォーム事業モデル開始までの流れ(イラスト)
思いを託す社員のための最後のチャレンジ!
他人に相談しにくい悩み事がもっと気軽に話せるプラットホーム事業モデル!