社長物語

1.野球漬けの毎日だった10代

私は、北海道釧路市で生まれた。練習大嫌いの熱血野球少年。幼い頃に親の転勤で愛知県に引っ越すことになり、甲子園をめざして地元の文武両道を掲げる私立高校へ入学。主将として迎えた最後の年に甲子園に行けなかったものの、同級生には、後に読売巨人軍でドラフト1位に指名されるほどのピッチャーがいたおかげで、プロ野球のスカウトも頻繁に来た。社会人野球にスカウトされ、プロの世界へ挑戦する夢も語り合っていた。

しかし20歳の時に突然訪れた引退勧告。ずっと野球漬けの毎日を送ってきたある日、「まだまだ野球ができる。」と、何の疑いもなく自分の道を信じていたのに、急に未来が閉ざされてしまった。今まで野球人として進んできた道。上下関係が厳しい中、監督に一言の文句も言わず、本当に苦しい中練習だけをずっとずっとやってきた。それが一瞬にして崩れ去る感覚。大きな挫折。どうしていいのかわからなくなった。その日の夜は、ひとりで真っ暗なグランドのホームベースに座り込み、いろいろなことを振り返った。親への感謝と野球で出会った仲間の顔を思い浮かべ、最後にバットを置いた。それでもすぐ翌日から待っていた仕事は、二輪車体の組立工場でのラインの作業の仕事。頭で覚えなくても体が覚えていて、自然な流れでロボットのように体を動かす毎日。野球で挫折して、何も考えなくてもできる仕事をひたすら続け、自分が人間でなくなっていくような虚しさを感じた。

2.依存して生きるのがもう嫌で保険会社の直販営業へ

「このままではイケない!」現状から抜け出したかった。ずっともがいていた。そんな中選んだのは、実力次第で独立でき、給与もしっかり稼げる保険の仕事。監督の一存で自分の未来を閉ざされたように、誰かに依存して生きるのはもうまっぴらだった。東京海上の研修生として入社し、教育担当者に言われるがまま飛び込み営業を繰り返す日々。野球で鍛えた体力と、厳しい上下関係で培われた「言われたことを素直にやる力」で、成績は同期の中で全国2位の成績。給与も増え、順風満帆なスタートなハズだった。

そんな中、会社を辞めざるを得なくなる事件が起きる。そのキッカケは全国規模の超大型契約。上司のサポートももらいながら地道に営業をして、日本中に拠点があり全国的な組織を持つ団体契約をいただけることになった。その額なんと6000万円。しかし契約が決まるその直前になって上司は、「この契約、直扱いにするから」と一言。その契約をいただくために、開発から手続きなど会議資料まで全部を一緒に関わったにもかかわらず、その契約は本社扱いとされ全く自分の成績にならなかった。こんな事はおかしいと、まわりの同僚・先輩達が立ち上がった。

元々、不満があった本社と研修生との関係性に対して火がついてしまい、大きな揉め事に発展。2回目の挫折。朝早くから夜遅くまで人の2倍、3倍働いて、せっかく築きあげた実績も、野球の時と同じようにゼロになってしまった。自分の責任で自分の実力で成績が積み上がっていく会社に入社したハズだったのに。しばらくボーッとして何もできなくなった。

そんな中、知人が紹介してくれたのが、直販制度があるという富士火災。「今度こそは!」と再チャレンジ。22歳で富士火災に入社し、同じように飛び込み営業を繰り返す。とにかく早く自由になりたかった。今思うと本当に生意気な社員だった。支社長の指示・命令にもよく噛み付いた。「言ったことは必死にやるけど、言われた通りやりきっても成果でなかったら責任とってくれるんですか?」と上司にも本気の真剣勝負を求めた。それでもらったアドバイスに対して、トコトンやり切ったため、同じように全国的にも優秀な成績を挙げたモーレツな社員時代。

大変ではあったけれど、保険の営業は本当にやりがいがあった。お客様が本当に困った時に助けになれる事が最高に嬉しかった。そしてお客様から、会社や家族には言えない事まで相談されて、それに応えたいと思った。今まで大嫌いだった勉強も楽しく勉強できるようになった。そうすると「長﨑君だから契約するんだからね・・・。」と、よく言ってもらえるようになった。最初は稼ぐためだけにやっていた仕事も、お客様に「ありがとう!」と言ってもらえることが幸せだった。たくさんのお客様に感謝されて、紹介もいただけるようになっていった。

順調に契約も増え、入社7年目の29歳の時には年収も1000万円を超えた。そろそろ独立と思ったものの、支社長が自分の数字を落としたくないとか、保険会社内の前年対比の増収などのくだらない理由や、若手の育成などでなかなか独立させてくれなかった。お世話になった会社ではあったけれど、組織にいるのは本当に嫌だった。ピンチの時にサポートしてくれる訳でもなく、その割に売り難い商品を売らされたり、後輩の指導を強要されたりするしくみ。

誰からも何も言われる筋合いも無く、組織に縛られず、自分の責任で、自分のため・お客様のための仕事だけができる事に魅力を感じて入ったはずなのに、組織の一員として会社のため、支社のための仕事をさせられるのが当たり前の答えのない仕事。早く自由になりたかった。

3.株式会社ジェイトップスを設立!

「30歳までには絶対に独立する!」と、心に決めた。何年もイタイ月日が流れたものの、最後はケンカすることなく、なんとか独立できる運びとなった。当時、研修制度では力を出し切れなかった中村君との2人でスタート。会社名を決める際は、「俺たちは絶対に日本一の代理店にはなれないけれど、日本で一番のサービスに挑戦する代理店になりたい」という思いで「ジェイトップス」と名付けた。

独立してやりたかったのは、一番の安心と一番の安全でお役に立つ事。独立当時は、保険会社の一方的な理由により、乗合代理店にはなかなかなれなかったが、お客様の期待を超える「ありがとう!」と言われるサービスについてはトコトンこだわった。特に力を入れていたのが自動車関係のサポート。自動車保険のお客様が多かった事もあって、修理や事故関係の手配がすぐにできるようにしていたのはもちろん、愛知県で一番値引きをしてくれる新車ディーラーの紹介や、無料代車サービスもいち早く始めた。自動車部品もタイヤ1本1000円など、本当に安い会社も紹介できた。

その流れではじまったのが、中古車買取・販売のフランチャイズであるラビット。お客様から、「この代車売ってよ!」「長﨑さんのところで、そのまま買い取ってくれないの?」と言われるようになって調べたところ、中古車販売が意外に簡単な事がわかった。やるなら責任を取れるようにと古物商の免許を取って、会社設立3年目の1992年、自動車販売店ラビットをオープン。お客様のありがとうのために始めた事業が、結果として自動車をきっかけに保険の相談に繋がることも増えていった。

その後、保険クリニックに加盟して来店型ショップを始めたのも、お客様にとって気軽に使って喜んでもらえる「証券診断サービス」に惹かれたから。それまでは、自動車保険のお客様に、生命保険の情報提供をしても、ほとんどがノーサンキュー。「大切な事だから」と頭下げても話を聞いてくれない。「何で断れるんだ?俺が何悪いことしたのか?」と、「ありがとう」と言って欲しくて伝えた事が、逆に拒絶の反応ばかりで落胆していた。

「このまま同じことを続けると物凄くかっこ悪い男になるぞ!」と思ってなんとかしたかった。情報収集に必死だった。その中で見つけたのが、保険クリニックの証券診断ソフト。今思えば転機となる出会いだった。最初は東京の本社へアポなしの突撃。「ウチのような小さくて暑苦しい保険代理店でも加盟できますか?」と聞いたことが、インパクトがあったようだった。今となれば笑い話でも、当時はとにかく必死だった。

『すべてはお客様の「ありがとう!」のために・・・』を会社のスローガンに掲げ、お客様の期待を超える日本一のサービスに挑戦する。お客様には感謝されて、社員も仕事の喜びを感じてより頑張るようになる。好循環で売上も社員も順調に増えていった。

4.人生の転機・・・そして次世代に向けたチャレンジ!

「まだいける!まだいける!どこまでもいける!」と、突き進んで一生懸命に働いてきた。そんな中、大きな転機が起こる。それは突然のくも膜下出血。病院に運ばれ、生死を彷徨う緊急入院。

それはちょうど息子の高校入学で、息子の甲子園出場に夢を託し送り出すタイミングで、突然後頭部が割れる感覚だった。いつ死ぬかわからない怖さで、意識が無くなった瞬間は今でも忘れられない。担当医から「50%の人は死んでるよ!」が聞こえた

妻をはじめ家族にはとても怖い思いをさせてしまった。もちろん、社員も混乱していたと思う。幸いにも仕事に復帰できたものの、そこから、「自分がいなくなったらこの会社はどうなるんだろうか?社員はどうなる?」という恐怖が付きまとうようになった。そして「私がいなくなっても安心して任せられる会社にする!」と44歳直前に大きな決断をした。

そこから、社員に対する要求は厳しくなった。私がいなくなっても「安定して・安心して生活ができる」だけの、自立し、経営感覚を持った社員を育てたい。そして、地域密着の愛される店を作る事で、応援される代理店になり、応援していただける人になってほしい。もしも、時代の流れに飲み込まれそうな時も支え合って助け合う仲間がいることで勝ち残れる店にしたい。50歳までに社長を譲ると宣言したものの、残念ながら、今年の5月で50歳を迎えてしまった。

あの日から一年一年が勝負の年だった。今年の経営方針を社員に伝えるにあたり、「2020年東京オリンピックへ!みんなと一緒に!家族も一緒に!!」という夢の確認も出来た。この実現のためには、ますます厳しさを増すことになると思う。たとえ社員に嫌われたとしても、「信じる人がいます。それ以上にぶれない自分を信じています」という想いで必ず創り上げます。仕上げます。その時が引退となる日。

そして2016年4月1日のエイプリルフール(笑)。ジェイトップスが新しいカタチに挑戦しました。それがPLATTO HOME CAFÉ(プラットホームカフェ)。保険クリニック全国初のカフェ併設店。毎朝行く喫茶店で高齢者や主婦の方達が友人同士で話し合っている。健康や食事の話。しあわせな話につらい話。そして恋愛や仕事などの相談。

もっと気軽な感じで相談する事ができれば、解決できるはずなのに・・・。

人間関係が氣薄な時代で、相談が深くできない現状があるように思う。それをなんとかしたくて、地域の皆さま方がもっと気軽に相談しやすい場所を作るために、カフェスタイルのコミュニティ・スペースを笑いや憩いの場になればみんなを笑顔にする事もできるとの思いで創り上げた。(一般社団法人愛知生活向上委員会設立準備中:代表理事中村卓導)

この新しいモデルをお客様の「ありがとう!」に繋がるしくみとして広げていく事で、ジェイトップスが10年、100年に渡ってお客様に愛される存在である地域になくてはならない応援される代理店を創ることが私の最後の仕事と考えております。バトンを引き継いで、想いも引き継いで、次にチャレンジしていくのが中村君の志事となります。

社員のしあわせとそのご家族のしあわせを導き、感謝と謙虚さを忘れることなく持ち続けるために、ジェイトップス心得五カ条を継承して、今後も挑戦していきたい。

ジェイトップス 心得 五カ条

  • 1.元気な挨拶・・・・すべては挨拶で始まり、挨拶で終わる。
  • 2.最高の笑顔・・・・明るい和の波動ができる
  • 3.感謝の気持ち・・・・奉仕の心
  • 4.家族への思い・・・・責任感
  • 5.挑戦(チャレンジ)・・・・夢を勝ち取る